浦上氏の本姓は紀氏あるいは蝦夷族。本貫地は播磨国揖西郡浦上庄。南北朝時代ごろより
赤松氏の被官となり、赤松氏が備前守護となるに及んで、浦上氏の勢力の中心も備前に
移ったようである。備前守護代として浦上氏の名が見える。
室町時代初期、浦上氏の消長は赤松氏のそれと軌を一にし、嘉吉の乱後、一旦没落した
赤松氏が長禄二年(1458)政則の代に再興した頃、浦上則宗の活躍が始まったといわれる。
その後、政則が播磨備作三国守護、侍所所司になると、則宗は所司代、山城守護代となった。
則宗の甥宗助は備前三石城に拠って備前東部に勢力を張った。
明応六年(1497)、宗助は、同じ備前の国人松田元勝を攻略している。文亀二年(1502)則宗
の死没後、浦上氏の隆盛を図ったのは、宗助の子で則宗の孫となった村宗である。
村宗の勢力が伸張するのに対して、赤松義村は永正十五年(1518)これを討伐しようとしたが
、則宗は被官宇喜田能家らの力を借りて三石城に拠り、大永元年(1521)ついに義村をを播磨
の室津に幽閉し、自殺させた。その後、細川高国と結んだ村宗は、摂津天王寺で
享禄二年(1529)討ち死にした。
村宗の後嗣は次男の宗景で兄政宗と対立した。宗景は和気郡天神城に拠って、東備、東作
一帯を制覇した。宗景の勢力伸張の影には宇喜田直家の功労を無視することができない。
しかし、宗景の身辺には尼子氏、ついで毛利氏の勢力も及ぶようになり、宗景は天正元年
(1573)織田信長に好を通じ、播備作三国の安堵を得た。このことは宇喜田直家の離反を
促す結果となった。同五年、天神山城は直家によって落とされ、浦上氏は滅亡した。
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